大江健三郎『晩年様式集 (In Late Style)』-晩年と「生き直し」

本棚#5

 2012年に発表された今作品は、大江健三郎の「最後の小説」ということで間違いないようです。

 いつものように主人公は小説家である「長江古義人」であり、知的障害を有した息子「アカリ」をはじめとする大江自身を重ね合わせられたような家族の物語。この小説のテーマはタイトルにもある通り、「晩年の仕事(レイト・ワーク)」、すなわち晩年を迎える作家がいかにしてスタイルを作り上げ小説を書き(遺し)遂げるのか。

 それは盟友・W.サイードが晩年に扱った研究主題(“On Late Style”,2007)に由来する。大江は巻末の詩でこのように記しています。

「ある種の芸術家が/死を前に選びとる/表現と 生き方のスタイル。/かれらは穏やかな円熟にいたらない。/伝統を拒み、社会との調和を拒んで、/否定性のただなかに、ひとり垂直に立つ。/そして、かつてない独創に達する者らがいる……」

 老師然と「円熟」した作品に落ち着くのではなく、むしろ死を前にして独自のスタイルで屹立する表現。それを大江自身がどうするのかが、この小説の目論見になってきます。それで、「晩年の仕事」を支える軸として「カタストロフィー」と「語り直し」という二つの軸から考えられるのではないか。

 まずこの小説のスタイルとして特異なのは、3.11の後揺れ動く家族の日々を「私」が「小説」として描くとともに、妹・妻・娘による「三人の女による別の話」が付属され、私家版の雑誌『「晩年様式集」+α』という形を取っていること。いわば好き放題小説に書かれてきた「三人の女」が、それに異議を唱え「私」に対して厳しい批判も飛び出す。そして、この小説は震災で変化する家族の実生活や関係性、それから「ギー・ジュニア」の登場といった「実際に進行している現在の出来事」と、「私家版雑誌」で様々に交わされる言葉やギー・ジュニアによるインタビューによって家族(の死)やそれを描いた「私」の過去の小説に疑問が投げかけられ真実を明るみに出そうとする「過去の掘り返し」とが重ねあわされた複雑な構造になっている。

 大江の後期作品で貫かれている「私小説的」(決して私小説ではない)なスタイル。それは単純に言ってしまえば「私」の主観から書かれた小説です。それに「三人の女」は対抗し自ら語り始め、「私」の認識や態度を覆し書き直しを要請する。加えてアカリが、父が書いてきた自分の言葉は「チガウ言葉」、つまり本当の自分の言葉ではないと明言する場面は切に迫ってくるものがある。それだけではない、死者たちについても語り直しが要求されてくる。「私」の父、吾郎(伊丹十三をモデルとした)、ギー兄さん。彼らの死はいかなるものであったのか、ということが『水死』『取り替え子』『懐かしい年への手紙』などを参照しながら改めて掘り返され、その度に「私」の向き合い方が真摯なものであるかということが強く問われてくるのだ。『晩年様式集』の画期的なところは、他者の声をないがしろにしかねない「私小説的」スタイルを今一度問い返し、「私」が「私」の視点からのみ書いてきた家族や死者の声を重層的に響かせて、自らの過去作品を書き直し新たな意味を更新して付与するそのプロセスそのものを、小説化したという点だ。このことは単に小説論におさまらない。「私」という独善に陥りかねない一個の人格が、他者の声や言葉によって自らを省みて過ちを正しやり直すことができるという意味で、自と他の協同の可能性を示す存在論なのだ。それは、巻末の次のような言葉からもわかります。

「私は生き直すことができない。しかし

 私らは生き直すことができる」

 大江にとってあるべき知性とは「生き直す」ために考え続けることなのではないかと思います。その背景には現代の危機的状況についての絶望的な認識があるはず。敗戦体験や、核の問題、フクシマ。「自分の世紀が積み上げた、世界破壊の装置」。大江は常に現代文明の危機感に裏打ちされた小説を発表してきたけれども、ことさら「三・一一」後という情況こそ「生き直す」という営みが前景化してきてくるのではないか。そこで「カタストロフィー」というキーワードが繋がってくるのですね。「カタストロフィー」に際した時にこそ「生き直す」ために知恵を絞らなくてはならない。そして、前に挙げた死者はいずれも「カタストロフィー」に際して死んだ人物であり、その死の意味を捉え返し語り直す必要がある。それは物語としてはギー・ジュニアが「カタストロフィー委員会」を組織してヴィデオ制作を行うということによって進展していきます(読んでない方には何のことやら分からないでしょうが、キリがないので説明しません)。

 それで、カタストロフィーに際して死ぬ、カタストロフィーに対峙し、というよりそのただなかに入っていくことで死を遂げるという生き方が、この小説のテーマ「晩年の仕事」に関わってくるのです。「円熟」した穏やかな境地で作品を遺すのではなく、自らの内面に潜む矛盾、その裂け目に入り込んでいく、カタストロフィーを潜り抜けていくことで「かつてない独創に達する」仕事。

 大江が入り込んでいくのはまさに文学的カタストロフィーなのではないかと思います。つまり、自分の小説が孕んでいる矛盾、破綻しかけているスタイル、小説としての破滅的な場所に自ら嵌まり込んでいくこと。その文学的カタストロフィーによる総決算こそが「晩年の仕事」なのではないか。そう読んでみたいと思いました。

 「私小説的」スタイルは「書き直し」をしたところで、「私」の主観を新たに更新して付け加える事しかできないのではないか? 「アカリ」の本当の言葉にしたって最終的に書き記すのは「私」なのだから。そもそも過去作品の著者は大江健三郎であって「長江古義人」ではないか? 著者の以前の複数の作品を読むことを要請するからこの作品は独立したものにはなっていないのではないか? 『「晩年様式集」+α』という名の長江家の私家版雑誌として銘打ちながら、大江健三郎の『晩年様式集』という小説として発表されるのはどういうことなのか? 晩年の様式として大江がとったスタイルにはあらゆる疑念を招く矛盾やズレが含まれていて、それこそ断層のように埋まっている。それに踵を返して安定した物語世界を構築するというのではなく、その割れ目にズンズン分け入っていくイメージ。盤石な土台に大御所として遺作を作り置くことを自らに許さず、真に誠実な語りの不可能性、小説の根源的な限界、それをあえて先鋭化させて奇妙な独自のスタイルを(破滅的に)徹底させること。

 大江健三郎は本当に最後までユニークな(あるいはbizarreな)仕事を見せた小説家であると思います。「奇妙な仕事」から「晩年の仕事」まで。一般的には小説として破綻していると言われかねない要素が多くあるのは、仕事を徹底化させた結果ともいえるかもしれない。少なくとも過去の作品を四、五編読んでいないとサッパリ意味が通じないと思うので、つくづく読者をひどく困惑させる作家であるとも思います。しかしここまで想像力を刺激し、様々な深い感情や印象的なモティーフを呼び起こす作品は稀有なものだし、これから生きる人々へ自らになしてきた問いかけを渡し託すような締めくくり方で小説はとても美しく綴じられています。

 取り急ぎ、備忘まで。尾崎真理子さんが『大江健三郎全小説全解説』を出されているほか、工藤庸子さんが『大江健三郎と「晩年の仕事」』という評論をつい最近まで連載されていたので、また勉強して考え直したいと思います。

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